2010年01月07日

女性作家「新人賞」を語る! 朝倉かすみ×宮木あや子×水森サトリ

「小説すばる」2009年12月号に
朝倉かすみ・宮木あや子・水森サトリの対談
「女性的作家生活。」が掲載されました。

朝倉かすみ
2004年『肝、焼ける』で小説現代新人賞
(現在は小説現代長編新人賞)受賞

宮木あや子
2006年『花宵道中』「女による女のためのR−18文学賞」大賞と読者賞受賞

水森サトリ
2006年『でかい月だな』小説すばる新人賞受賞

そのなかから、まず、「新人賞をとるまで」を抜粋します。

宮木 他の賞にも応募しましたけどね。二十歳の時に文藝賞と、二十五くらいの時に太宰賞。で、そのすぐ後に青春文学大賞の第一回目に。初回だからいけると思ったらダメで、その後R−18が二回だから、五回目でデビューですね。水森さんは何回応募しました?

水森 私は小説すばるが初めてなんです。さっきもお話ししたと思うんですけれど、小説が読めない、というのがまずあって、なんとか克服したいと思って、時々書店で「小説すばる」を買っていたんです。最初に手にとったのがたまたま「小説すばる」で。他の小説誌を読んだことがなかったので、他に選択肢がなかった。だから、どうしてこの賞に応募したのか、っていう理由が宮木さんくらいたくさんあると立派だなって思いました。

朝倉 私も小説現代新人賞でデビューしましたけど、それまでいろんなところに応募しました。二〇〇〇年くらいから書くのを再開して、三年くらいあらゆる賞に落ちまくっているんです。一次も通らないの。まさに箸にも棒にもかからなくて、「またハシボウだった」の繰り返しで。こうなったら毎月どこかの賞に出してやる、と送り始めたのが二〇〇三年頃。

(中略 ここで北海道新聞文学賞を受賞した時の話)

朝倉 わかんないよう(笑)。だって他に思い当たることないもん。でも、「このまま」じゃなかったら大きくなれるんだなと思って、受賞式の夜からまた書き始めたんです。
 それまでは、自分が純文学かエンターテインメントかどちらに向いているのかもわからなかったんですけど、選評で「近年まれにみる達者な書き手だ」というようなことを言われたんですね。作家に「達者」という評価をされるということは、エンターテインメントのほうが向いているのかなと思って、それ以降はエンターテインメント系の賞に絞って応募しました。


「応募する人へのアドバイス」(抜粋)

水森 アドバイスとか、そんなおこがましいことは何も言えないんですけど、とにかくまずは受賞されるように。受賞された方にはおめでとうと言いたいです。

朝倉 とにかくこっち来いよと。

水森 いえいえ、そんな偉そうなことじゃなくて(笑)。小説を書くのは自転車の運転と同じで、乗れるようになるまでは、人から何をどう説明されてもわからない、体の感覚だと思うんです。だからいつか、こういうことか!ってわかる日が来るといいですねって。

宮木 自分が書いているものを、ジャンルがどうとかだけではなくて、どこまで客観視できるかが大事だと思います。自分が客だったら、金を出してこれを読みたいか、その価値があるかどうかをきちんと見極めた上で、自分に合った文学賞を探すこと。そうすれば近道にはなるんじゃないかな。

朝倉 小説家になりたいとか、小説を書きたいっていう人と話をする機会がなぜか結構あるんですけど、なりたいのに書き出せない人ってすごく多いんですよ。書き出しても最後まで書けないとか。とにかく、どんなものでもいいから、最後まで書く癖をつけた方がいいと思います。で、最後まで書けたら、また新しいのを書き始める。それを最後まで書く。その繰り返しができるかどうかではないかと。まず、それをできるようにすることが大事なような気がします。


(ブログにアップするに当たり、読みやすいように改行を加えています)

このほか、受賞するまでの生活、受賞の知らせを受けた時の気持ち、
受賞後の生活、受賞後第1作を書きあげるまで、
作家になってよかったことなどを語っています。

本「小説すばる」 2009年 12月号より


posted by かつき at 12:51| 作家のデビュー話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月19日

私がデビューしたころ 有栖川有栖 「二十年目を迎えて」

「鮎川哲也と十三の謎」という叢書があり、
そのなかに作品が入り、デビューした有栖川有栖。
そのデビュー作について。

 十九年前、私は刷り上がったばかりのデビュー作『月光ゲーム』を手にして、溜め息をついた。自分の書いた小説がついに本になったことがうれしくて、いつまでも表紙を眺め、ページを繰ったものだ。夜は、枕元に置いて寝た。二十九歳だった。

 コナン・ドイルや江戸川乱歩に夢中になり、推理作家になりたいと望むようになったのが十一歳の時。推理作家になるためには、まず最初の本を出さなくてはならない。それを目標と定めて、十代、二十代のほとんどを過ごした。長い時間だった。そこに至る経緯やら、デビュー当時のことは、文庫版『月光ゲーム』のあとがきをはじめ何度も書く機会があった。ここで繰り返すのは憚られるが、作家生活二十年目に入るにあたり、雑感を綴ってみる。うっかりすると薄れそうになる初心を取り戻すよすがとするために。

 この作品は会社員時代に第三十回江戸川乱歩賞へ投じ、一次予選であっさり敗退したものが原型になっている。ファンレターを送ったのが縁でお近づきになれた鮎川哲也先生が、それを東京創元社の戸川安宣編集長(当時)に紹介してくださったのだ。おかげで改稿の機会を得、叢書<鮎川哲也と十三の謎>の一冊として出版に至った。『月光ゲーム』が本になるのを待っている間には、第二作『孤島パズル』をかなり書き進めていた。ちょうど昭和が終わろうとしていた時期だ。


作品の評価は作家なら誰でも気になるところですが
それがデビュー作となれば、なおさらでしょう。

 反響がどのようなものであったか、作者にもよく判らない。初版は五千部だったが、数日のうちに重版が決まった。作家人生の滑り出しとしては幸運なことだが、それはもちろん「『月光ゲーム』って面白いぞ」という評判が口コミで広まったからではない。鮎川哲也監修・東京創元社発行というブランド力のおかげであり、本格ミステリに対するファンの熱い期待によるものであることは重々認識していた。

 私は、当時も今も、ミステリのファンダムであるSRの会員なので、その方面からは批評が聞こえてきたし、合評会の俎上にのせられて直に感想を聞きもした。色々な見方があったが、絶賛や罵倒に傾くことはなく、均せば「志は買うから、これからがんばりなさい」といったところだった。作者が会の身内なので、きつい批評を控えてくれた人もいただろう(身内だからといって、ことさら持ち上げられもしなかったが)。

 その程度の反応でちょうどよい具合だったかな、と思う。物書きとして、私は昔も今も打たれ弱い人間ではないが、さすがに夢にまで見たデビュー作を手ひどく叩かれたら消沈していただろう。と同時に、手放しで褒められたら図にのって、本格ミステリをなめてしまった惧れもある。あれぐらいでよかったのだ。その年の『このミステリーがすごい!』で『月光ゲーム』は十七位に、第二作の『孤島パズル』は十六位に選ばれた。これまた新人作家にとってありがたいポジションであった。


本「ミステリーズ!」vol.27 FEBRUARY 2008より引用

ブログで読みやすくするために改行を入れています。

【有栖川有栖 プロフィール】
1959年大阪市生まれ。同志社大学法学部卒業。
書店勤務を経る。
1989年「鮎川哲也と十三の謎」の1冊として『月光ゲーム』でデビュー。
2003年『マレー鉄道の謎』で日本推理作家協会賞受賞。


posted by かつき at 17:09| 作家のデビュー話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月13日

私がデビューしたころ 芦川澄子 「愛と死を見つめて」のころ

芦川澄子は昭和34年に「愛と死を見つめて」で
「週刊朝日」「宝石」共同募集の第2回に入選してデビューします。

 昭和三十四年に「週刊朝日」と「宝石」が共同募集をした懸賞小説に、私の作文のような小説が入選したのがデビューと云えば云えるのかもしれませんが、その後「宝石」がなくなるとともに、私も自然に消えてしまって幾星霜、私は書き手よりも読み手の地位に安住しておりました。

(中略)

 私は専業作家になるほどの才能がないことを自覚していましたが、「宝石」社の方ではものになるなら作家として育てようというお考えもあったのでしょう、ある時、当時の編集長だった大坪直行さんが、上京した私を江戸川乱歩先生のお邸に連れて行ってくださいました。あの頃、江戸川乱歩先生は神様みたいな存在でしたから、私はただうつむいて固くなっていました。乱歩先生が「あんたの原稿は、誤字脱字がやたらと多い。わからない字は、変な漢字を使わずに仮名で書きなさい」と仰云ったことは肝に銘じております。

(中略)

 私が週刊朝日の懸賞小説に入選して、一番嬉しかったのは、賞金の十五万円もさり乍ら、乱歩先生にお目にかかれたことかもしれません。乱歩先生のお励ましにも報いず、私の人生の終りに近づいて、作家としては結局目が出ませんでしたが、ミステリーの楽しみかたを目いっぱい味わって、悔いのない生涯を送ることが出来ました。

 生まれ変わったら鮎川賞にでも挑戦してみるか? などと云ったこともありますが、ミステリー作家の創作の苦労を思うと、怠け者の私は、やはり、来世でも書き手より読み手の道を選びたいと思っています。


芦川澄子は鮎川哲也夫人。
「鮎川賞に挑戦する」というのは、お宅で言われたジョークなのでしょう。

2007年11月に、デビュー作を含む
『ありふれた死因』を上梓。
作家活動は5年ほどだったようですが
印象深い作品が多く、このように晩年になって
本になることもあるんですね。
ま、鮎川哲也夫人として文壇とのおつきあいが続いている
ということも大きく影響しているでしょうけれど。


「ミステリーズ!」 vol.26 2007年12月より引用

ブログで読みやすくするために改行を入れています。

【芦川澄子 プロフィール】
1927年東京生まれ。甲南高女卒業。
1959年「愛と死を見つめて」が第2回「週刊朝日」「宝石」共同募集に一等入選。
1964年鮎川哲也と結婚。
1967年離婚。のち復縁。

posted by かつき at 17:01| 作家のデビュー話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月04日

わたしがデビューしたころ 柴田よしき「やっと思春期?」

以前、柴田よしきのデビューの話はアップしたので
そちらに譲るとして、
第2作目以降の苦労を「ミステリーズ!」から
拾っていこうと思います。

 作家を目指す人の前でほとんどの作家が言うことは、「デビューするより生き残ることのほうが難しい」であり、そしてそれは事実だ。けれど、わたしは今、十二年作家として生き残ったことに特別な感慨はない。なぜなら、わたしは小説を書く上でのスタンスは、十二年前と何も変わっておらず、結局のところこの十二年間、わたしはずーっと舞い上がったままで、うきうきと小説を書き続けて来ただけなのだ。(中略)今でもわたしは、自分の本が書店に並ぶたびに、あの頃の高揚感と少しの恥ずかしさとをもって、表紙をそっと撫でている。

(中略)

 さて、横溝正史賞という華やかな賞を幸運にもいただいて、とりあえずはデビューは幸せに果たしたわたしだが、何しろ、苦節ン年新人賞をめざして研鑽を積んでいた。というわけではまったくなく、初めて書いた長編推理小説で受賞してしまったため、ストックと呼べるものが一切、なんにもなかった。しかしプロ作家になってしまった以上、とにかく次の本をださなくてはすべての命運がそこで尽きてしまう。手探りで書き始めた受賞第一作が、上述した『聖母(マドンナ)の深き淵 』であるのだが、そこにたどり着くまでの一年間に、まずは最初の挫折を体験したのである。実は受賞第一作として書き始めたのは、『聖なる黒夜』のもとになったと言える作品だった。つまりこの時点ですでに、麻生龍太郎や山内錬など、あのシリーズの中軸となるキャラクターはわたしの頭の中に存在していた。と言うよりも、受賞作を書く前から彼らはすでに、わたしの中に住んでいた。

 が、なにしろ、彼らは存在が大き過ぎ、重過ぎ、やんちゃ過ぎた。当時の私の筆力では彼らの暴走を制御することが出来ず、しかも「来年の横溝賞までに受賞第一作を出してください」という出版社からの要請に焦りまくったあげく、書き上げた作品はボロボロで、とてもプロの作品として世に出すことはできない惨憺たるものになってしまった。もしあの時、「これはまだわたしに無理だから、別のものを書こう」という決断がつかないままにずるずると引きずっていたら、たぶん、わたいはとっくに潰れてしまっていたと思う。

柴田よしきは、自分の欲望を抑え、一つの作品を封印し
別の作品にとりかかります。

こうして受賞してすぐ挫折したわたしは、それから今に至るまで、自分の筆力と書きたいものとを「まずは仲良くさせる」ことを続けている。今のところ、デビュー直後ほど大きな挫折は体験しなくて済んでいるのも、そうした「生きるすべ」をあの時に学んだおかげだと思っている。


「ミステリーズ!」vol.24(AUGUST2007)より引用

ブログで読みやすくするために改行を入れています。
また中略は管理人によって行いました。

【柴田よしき プロフィール】
1959年東京都生まれ。青山学院大学卒業。
1995年『RIKO―女神(ヴィーナス)の永遠』で第15回横溝正史賞受賞。


posted by かつき at 13:36| 作家のデビュー話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月19日

わたしがデビューしたころ 井上雅彦「ショートショートが書きたくて」

短編の新人賞から出発するのは
単行本が出るまでに時間がかかり
その道のりは果てしなく感じることでしょう。
ショートショートから作家になった井上雅彦が
そのような日々を綴っています。

まず、授賞式の日のことを――。

 忘れられない日の記憶。それは、今でも、美しい。

 一九八三年(昭和五十八年)三月二十六日。――この日、私は武道館で行われた明治大学の卒業式を無事にすませたあと、その足で、有楽町・交通会館ビル最上階へと向かった。講談社主催<星新一ショートショートコンテスト>の授賞式会場である。学生生活を終えたその日に「この世界」の入り口をくぐる。――このいわば象徴的なタイミングが、私に「この世界で生きていく」という覚悟を与えたように思えた。夢が現実になる区切り。そして、夢はいきなり目の前に現れた。会場へ向かうエレベーターの中に、星新一がいた。長身の紳士。花の開くような笑顔。頭の中が、たちまち白くなった。彼は生きている「夢」だった。氏の『作品100』をむさぼるように読んだ夏の日が甦った。こんな本を創りたい。自分の作品を目次に並べたい。ショートショートを書く作家になりたい。そう渇望したのは、ほんの数年前だ。その本人が、自分を選んでくれた。これから、本当の人生がはじまるのだ……と当時の私は真剣に思った。

この強烈な体験があったため
井上雅彦はその後の生活に耐えられたのかもしれません。
そして信頼できる編集者の出会いと
同じくショートショートコンテストに入賞した仲間との出会い。
内定した会社に通いながら原稿を書く日々が始まります。

 (前略)不良債権の管理で徹夜をし、ふらふらになりながら宇山氏に電話を入れ、小説の話や無駄話をしては、精神の均衡を保った。授賞式に用意していった受賞後第一作は、無事に『ショートショートランド』誌に掲載してもらっていた。原稿のできがよければ、掲載してもらえる。せっせと書いては、帰宅途中に護国寺駅で降り、講談社の夜間原稿窓口に作品を預けた。

 たまには、同期受賞者の仲間と一緒に編集部に持ち込んだ。(後略)


ここに出てくる宇山氏とは宇山日出臣(うやま ひでお)氏のこと。
中井英夫の『虚無への供物』を文庫化するため、講談社入社。
新本格ブームの仕掛け人、講談社文芸図書第三出版部部長として、
辣腕をふるいました。文三はメフィストの編集部です。
京極夏彦の持ち込み原稿からメフィスト賞を創設。
京極夏彦、森博嗣ら新人作家への愛情深く、多くの作家を育てました。
定年退職後、2年で逝去。
宇山さんは伝説の編集者としてこれからも語り継がれると思われるので
作家を目指す以上、どんなジャンルであっても知っておきましょう。

さて、井上雅彦に戻ります。

 結局、なんとか生き抜いた。ショートショートと短篇小説を書き継いで、生きてきた。会社を辞め、書いて、再就職して、書き、書き継いだ。怪奇小説の縁で知り合った先達・夢枕獏さんに『獅子王』(朝日ソノラマ)誌の石井進編集長を紹介されてから、一気に発表作品が増えた。フルタイム作家になったのは、石井氏や宇山氏のもとで長編を発表するようになってからである。そして……。

 一九九四年、ついに念願の第一短篇集『異形博覧会』(角川ホラー文庫)を出すことができた。受賞作「よけいなものが」をはじめ、<賞金稼ぎ>と<裏稼業>のすべての短篇小説、ショートショートを収録した、夢の塊。

 あれから――なんと十三年が経過したことになる。今では、ショートショート集を含めて個人短篇集は全九冊。『ミステリーズ!』誌に掲載していた連作短編集『遠い遠い街角』(東京創元社近刊)で十冊目となる。


「ミステリーズ!」vol.23 2007年JUNより引用

ブログで読みやすくするために改行を入れています。

【井上雅彦 プロフィール】
1960年東京都生まれ。
1983年「よけいなものが」で星新一ショートショートコンテスト優秀賞受賞。
1998年『異形コレクション』で日本SF大賞特別賞受賞。


posted by かつき at 16:45| 作家のデビュー話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする