柄刀一は700枚を超える原稿の送り場所がなく
高木彬光に送ったことがあるそうです。
もちろんそんなことは失礼なことですし
やってはいけないことですが
温かな手紙とともに送り返されてきたというエピソードを
「私がデビューしたころ」というエッセイで告白しています。
さらにデビューするまでを読んでみましょう。
作家デビューできるまで、私は非才ゆえ、二十年近くも投稿生活を続けなければならなかった。この間に制作した作品は、残念ながら発表の場がなかったか、ボツ原稿ということになる。しかし彼らは、デビューできてみればストックということにもなるし、実際、焼き直しに値するものは実作として役立ってくれた。
『3000年の密室』以前のボツ原稿が百より多いのか少ないのかは不明だが、一番忘れられないそれは、一九九四年の第七回日本推理サスペンス大賞候補作だろう。作品そのものよりも、候補となった結果が大きかった、という意味でなのだが。
しかしさすがに、定職に就いて家庭も持たなければ、人生どうなっちゃうか判らないよ、といった年齢になってくる。書くことをやめはしないが、それでも人生の軸足の大転換をしないとだめなんじゃない、と、追い詰められながら自問をする日々の到来だ。
ところが、幸か不幸か、ここで長編が日本推理サスペンス大賞の最終候補に残った。そして短編は、鮎川哲也先生に採用されて『本格推理』(光文社)に掲載。こうしたことが重なり、私はまた調子に乗って錯覚する。もっと続けてもいいということではないのか? 今のスタイルでやっていても、目が出るのでは?
私の、定職なし投稿生活が継続する契機である。
今は、本格ミステリー作家として確固たる地位を築いていますが
それまでに20年かかっていたんですね。
応募作を読んでいて、
新人賞応募作としてはどうかな? という弱い作品、
新人賞と性格が合わない作品は確かにあります。
そういう作品はデビューしてから発表する場がありますので
ストックにしましょう。
「ミステリーズ!」vol.22(APRIL2007)
【柄刀一 プロフィール】
1959年北海道生まれ。
1996年、1997年と2年連続で鮎川哲也賞の最終選考に残る。
選考委員の有栖川有栖らに推薦されて
1997年『3000年の密室』