学校に行くよりも本を読みたい、
会社に入ってもらった給料も本につぎ込み、
会社を辞めた理由も突きつめれば本を読む時間が取れない
だったような気がするという柳広司。
そして子供頃から嘘つきで虚言癖があります
とまで教師に言われてしまった彼は
ようやくそれらを、ある職業に活かせると気づきます。
それが小説家。
ところがそこから彼の苦悩の日々が始まります。
(前略)小説家が小説家であるためにはデビューすることが、言い換えれば、発表すべき作品が必要なのだ。
困ったことに、私は自分が小説家であると自覚した時点で、何一つ発表すべき作品を書いてはいなかった。
と言うか、日記はおろか、絵日記すらつけたことがなかった。
かくて私は、その日をさかいに、自分が小説家であることを自他に証明すべく、狭いアパートの一室に引きこもり、ひたすら小説を書き始める……となるはずだったが、当時はちょうど各社新人賞が手書き原稿を受け付けなくなるという一大革命時期を迎えており、小説を書く前に“ワープロの打ち方”というきわめて即物的な技術の習得からはじめなければならず、そのことに気づいた時は、いささか出鼻を挫かれた感じだった。
その後、二十代後半から三十歳代にかけての数年、私はほとんど誰とも逢わず、せっせと小説を書いては、各種新人賞に応募するという生活を続けた。無論、
“長短凡そ三十編、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の非凡を思わせるものばかりである……”(中島敦『山月記』)
とは簡単にはいかず、そのうえ自分が思いつくアイデアなどとっくに、すべて試し尽くされている事実をほどなく悟ったものの、それで失望したかといえばそうでもなく、私は連日、あたかも物の怪に取り憑かれたかのように、ひたすらワープロのキイを叩きつづけた。客観的には少しもあてのないあの生活を、主観的にはなぜあれほどの確信を持って続けられたのか、今となっては理解に苦しむしかない。
最終候補に残ること六度。
何となく各社の編集者と顔見知りになってはきたものの、貯金も底をつき、そろそろ何とかならないと困るなァと思っているうちに、早くも二〇世紀が終わってしまったのには、正直閉口した。
さて、がらり年が明けて、二〇〇一年。
輝かしい二十一世紀の幕開け……のはずが、9・11に始まる人類終末戦争勃発の年と記憶されそうな気がしないでもない、記念すべき年の二月のある日、柳広司の最初の著作『黄金の灰』が刊行された。
同じ年の五月には「贋作『坊っちゃん』殺人事件」が、とある新人賞で見事に当選し(というのだろうか?)、同作が九月に刊行。さらに同年十月に『饗宴 ソクラテス最後の事件』
が立て続けに刊行されるという、一見いかにも華々しい、しかし実際には細々としたデビューが今日の始まりである。
デビューしてみて気がついたこと。
冒頭の言葉に付け加えるならば、
――小説家とは読者のなれの果てであり、かつ小説の下僕である。
という、明白にして、厳然たる事実であった。
小説――フィクション――徹底した嘘のために、小説家は涙ぐましい努力を払わなければならない。時間と労力、ついには人生のすべてを捧げ尽くし、しかも愉悦の笑みを浮かべ、喜々として「小説」というご主人様に奉公するのが小説家という職業の定めなのだ。(後略)

ブログで読みやすくするために、改行を入れています。
【柳広司 プロフィール】
1967年三重県生まれ。
2001年『黄金の灰』
同年「贋作『坊っちゃん』殺人事件」
