脇道にずれた人生を「ミステリーズ!」vol.17
でもその脇道が結局、小説家に導いたと言います。
こうして、私の「小説家」への努力がはじまったのである。ほら、会社という脇道にそれたことがここに結実したじゃありませんか。それまで、なんとなーく「いつか小説家になれたらいいな」的なのんびりした気持ちで小説を書いていた私は、こうして「何が何でも会社を辞めなくてはならぬ」的な切迫した状況に追いこまれてしまったのである。転職して、よその会社にいったとしても、会社員であることにかわりはない。あのですね、どこの会社に行ったとしても、それがどーんなに良い会社であったとしても、「会社は会社」。よく知らない会社で一から仕事を覚えるよりは、この会社でなんとか日々の仕事をこなしながら小説を書き、自由業になる……これしかないと思いつめた私はその日からひたすら小説に精進した……わけではないのである。なぜ、そうしなかったかというと、冒頭にも書いたとおり、作家というのは「めちゃくちゃ才能があって、めちゃくちゃラッキーな、ごく一部の選ばれたひとがなる」ものだと思っていたから、「なんやかんや言うたかて、そんなもんなれるわけおまへんがな。だいたい俺の小説なんか、誰もわかってくれへんわ」という気持ちだったのである。
ところがジャズにのめりこんで、バンドを結成し、批評を書き、
それを『スウィング・ジャーナル』のジャズ評論に送ったところ、入賞。
田中啓文は
「嗚呼、私はまちがっていた。私の書いたものをちゃんと読解して、評価してくれるひとがここにいる。ジャズ評論でもそうなのだから、小説でもきっとそういうひとがいるはずだ」
と小説を猛然と書き始めます。
奥様も奨励してくれました。
以後、夜中に白ワインで眠気を覚ましながら書く、という日々が続きます。
そしてある土曜日の昼すぎ、出かけるついでにマンションの一階にある郵便受けをのぞいてみた私は、そこに「貴方の『落下する緑』が『鮎川哲也の本格推理』に入選しました」というハガキを見つけたのである。
(やっと……デビューできた……)
これで、朝まで白ワインの生活ともおさらばである。一瞬、喜びが全身を駆けめぐったが、待て待て、と冷静なもうひとりの私が、有頂天になっている私をいさめた。デビューといっても、鮎川さんの名前を冠したアンソロジーに短編が収録されただけだ。自分の名前で本が出せるには、あと一年以上、いや、二年、もしかしたら十年ぐらいかかるかもしれん……そう自分をいましめたのである(偉いねえ)。(後略)
そして本格デビューまでには、さらに年月がかかりました。
(前略)ヤングアダルト作家と会社員の二足のわらじという過酷な生活から脱却するのに、それからあれほどの歳月を要するとは夢にも思わなかった。私の「えらい目」は実はここからはじまったのであるが、その話はまた後日。

【田中啓文 プロフィール】
1962年大阪生まれ。
1991年「私の考えるジャズの未来」でスイングジャーナル誌主催のジャズ論文入賞。
同年「落花する緑」で「鮎川哲也の本格推理」入選。
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