選評には、その新人賞を目指す人全体への語りかけが
書かれている場合があります。
どんな作品を望んでいるか、どんな賞であるかがわかります。
新しく設立された新人賞の場合にはそれが顕著です。
例えば、ミステリーズ!新人賞は
ミステリー色が強くないと受賞できません。
「『眠り姫』を売る男」は、イギリスの獄中を舞台に、
ファンタジーとホラー要素を濃厚に盛っている。
盛りすぎて、ほとんどミステリでなくなっているのが難点。」
(第3回選評 有栖川有栖)
この指摘はほかの選考委員もしています。
落選理由はこの点だけではないのですが
この作品は最終選考で落ちています。
ミステリー色を強くすることが当選の条件ということが
選評から読み取れます。
つまり選評から受賞の傾向と対策が学べます。
さらに、応募作の水準が下がっている新人賞を見つけられます。
欠点が挙げられたにもかかわらず、
受賞してしまったケースなどは、それが考えられるでしょう。
自分の応募する新人賞だけではなく
同じジャンルの新人賞には目を配っておくことも大切です。
もちろん選評に書かれている個別の指摘から
学ぶことは言うまでもありません。
文章力、プロット、人物造形、トリックなど
選考委員が指摘する部分はクリアしたいですね。
特に応募作のダメなところ、多い間違いは
選考委員も意図的に書き出しますので参考にし
それを超えるものを書くように心がけます。
たとえば文学系でいえば
最近「下流小説」がたくさん応募されるのですが
それについて第104回(2007年上半期)文學界新人賞で
浅田彰が
「絶望さえもてない「下流」社会の現実をリアルに描けば
それでいいという作品が、最近多すぎるのではないか。
それは真摯に見えて実は文学の(また生の)可能性を
なめてかかった態度と言うべきではないか。選考委員会で
辻原委員の漏らされたこの怒り(むろん「消滅」という
個別の作品に向けられた怒りではない)を私も完全に共有する。
その意味でも、良かれ悪しかれ下流リアリズム小説とは
対極的な二つの作品が受賞作となったのは、
意味のあることなのではないか。」
と記しています。
下流小説に関してはほかの新人賞の選考でも話題になったり
「プロレタリアート小説の再来」といった
間違った解釈がされたりしています。
しかし現実、若者の乗り越えられない格差社会の現実がある以上、
それが文学や作品に反映されるのは仕方がないですし
書き手もその希望のない状況が重要なテーマになるでしょう。
その上で選考委員が
「リアルに描けばそれでいい」
と感じる作品でしかないことも確かです。
この下流社会を小道具としてでも小説に盛り込む時には
注意が必要でしょう。
またエンターテインメントでは
さらに小説の技術について言及されていることが
たくさんあります。
たとえば第19回小説すばる新人賞で五木寛之は
「もし不満をあげるとするなら、読者がみずからの感慨として
読後に発見するはずの思いを、作者が先に説明してしまう傾向が
ある点だ。」
井上ひさしは、
「全編を通して小説的道具を順序正しく並べすぎたのではないか。
思い切ってまぜこぜにしたら、物語の熱気も生まれたはずだが。」
北方謙三は、
「全体的に都合のいいストーリーになっているのは、偶然を
多用しすぎたためであろう。散歩の途中で山田に会うのも偶然、
ハットリの家の前でリンチに遭うのも偶然。小説の要になる
部分だから、偶然さえ読後は必然であったと思わせる、
小説的昇華がいまひとつ足りない。それは、思いつきの先行と
いうことになる。」
第87回オール読物新人賞では、伊集院静は
「ところが読んで行くうちに物足りなさを感じはじめた。
善い人ばかりが目立って、真三郎が道を外した悪の世界までが
画一化されてしまった。悪の不気味さが見えない。」
桐野夏生は
「小説は生き物だから、がちがちに構成するとたちまち元気を
失ってしまう。」
など、その作品を読んでいなくても、
小説を書く上で勉強になります。
偶然が多い小説。
いい人ばかりの小説。
これらが読者をどれだけ醒めさせるかは
小説指南書にも書かれていますが
実際に選評で読むと臨場感が違います。
五木寛之の指摘する書きすぎの小説は
とても難しいですが、これがクリアされれば
新人賞をとった後も活躍できる書き手と
確信される作品になるでしょう。
●新人賞のとり方●





