そのなかに作品が入り、デビューした有栖川有栖。
そのデビュー作について。
十九年前、私は刷り上がったばかりのデビュー作『月光ゲーム』を手にして、溜め息をついた。自分の書いた小説がついに本になったことがうれしくて、いつまでも表紙を眺め、ページを繰ったものだ。夜は、枕元に置いて寝た。二十九歳だった。
コナン・ドイルや江戸川乱歩に夢中になり、推理作家になりたいと望むようになったのが十一歳の時。推理作家になるためには、まず最初の本を出さなくてはならない。それを目標と定めて、十代、二十代のほとんどを過ごした。長い時間だった。そこに至る経緯やら、デビュー当時のことは、文庫版『月光ゲーム』のあとがきをはじめ何度も書く機会があった。ここで繰り返すのは憚られるが、作家生活二十年目に入るにあたり、雑感を綴ってみる。うっかりすると薄れそうになる初心を取り戻すよすがとするために。
この作品は会社員時代に第三十回江戸川乱歩賞へ投じ、一次予選であっさり敗退したものが原型になっている。ファンレターを送ったのが縁でお近づきになれた鮎川哲也先生が、それを東京創元社の戸川安宣編集長(当時)に紹介してくださったのだ。おかげで改稿の機会を得、叢書<鮎川哲也と十三の謎>の一冊として出版に至った。『月光ゲーム』が本になるのを待っている間には、第二作『孤島パズル』
をかなり書き進めていた。ちょうど昭和が終わろうとしていた時期だ。
作品の評価は作家なら誰でも気になるところですが
それがデビュー作となれば、なおさらでしょう。
反響がどのようなものであったか、作者にもよく判らない。初版は五千部だったが、数日のうちに重版が決まった。作家人生の滑り出しとしては幸運なことだが、それはもちろん「『月光ゲーム』って面白いぞ」という評判が口コミで広まったからではない。鮎川哲也監修・東京創元社発行というブランド力のおかげであり、本格ミステリに対するファンの熱い期待によるものであることは重々認識していた。
私は、当時も今も、ミステリのファンダムであるSRの会員なので、その方面からは批評が聞こえてきたし、合評会の俎上にのせられて直に感想を聞きもした。色々な見方があったが、絶賛や罵倒に傾くことはなく、均せば「志は買うから、これからがんばりなさい」といったところだった。作者が会の身内なので、きつい批評を控えてくれた人もいただろう(身内だからといって、ことさら持ち上げられもしなかったが)。
その程度の反応でちょうどよい具合だったかな、と思う。物書きとして、私は昔も今も打たれ弱い人間ではないが、さすがに夢にまで見たデビュー作を手ひどく叩かれたら消沈していただろう。と同時に、手放しで褒められたら図にのって、本格ミステリをなめてしまった惧れもある。あれぐらいでよかったのだ。その年の『このミステリーがすごい!』で『月光ゲーム』は十七位に、第二作の『孤島パズル』
は十六位に選ばれた。これまた新人作家にとってありがたいポジションであった。

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【有栖川有栖 プロフィール】
1959年大阪市生まれ。同志社大学法学部卒業。
書店勤務を経る。
1989年「鮎川哲也と十三の謎」の1冊として『月光ゲーム』
2003年『マレー鉄道の謎』